元・保護犬の「看取り犬」文福が起こした奇跡

『さくらの里 山科』では、飼い主と入居したペットのほかに、保護犬や保護猫も一緒に暮らしている。そのうちの1匹が、「看取り犬」である文福だ。

 文福は推定年齢12歳。「推定」なのは、殺処分寸前の保護犬だったからだ。入居当時は、自分が殺されるかもしれないことを察知していたのか、神経質な状態で来た。

 今はおだやかな気性の犬だが、ここへ来た当初、職員には「ウーッ」とうなっていた。しかし、入居している高齢者には、絶対にうならなかった。おそらく“守るべき存在”ということが、文福にはわかっていたのだろう。

 その文福は、すぐにホームに慣れ、入居者にまぎれてちょこんと椅子に座っていたり、さりげなく隣に行ってなでてもらったりするホームの人気者になった。

 文福が「看取り犬」であることを発見したのは、前出の介護職員・出田さんだ。

『さくらの里 山科』では例年、年間30人ほどが亡くなる。看取り期に入る入居者が出ると、なぜか文福は、その入居者の居室のドアの前にぺたっと悲しそうに座り、ずっと寄り添うのだ。出田さんは、いつも元気な文福の物悲しい姿に「あれ?」と不思議に思っていたが、その入居者は翌日に亡くなった。

「看取り犬」という不思議な力を持つ文福。入居者の死期を察知すると、そばから離れようとしない。多くの別れに寄り添い、人生の最期を見届けてきた
「看取り犬」という不思議な力を持つ文福。入居者の死期を察知すると、そばから離れようとしない。多くの別れに寄り添い、人生の最期を見届けてきた
【写真】『さくらの里 山科』の施設内、入居者がワンちゃんたちと触れ合う様子

 また別の入居者が亡くなったときも、文福は同じ行動をとった。亡くなる2〜3日前になると、居室のドアに座り、すっと部屋に入り、ベッドに上ってペロペロと顔をなめる。職員が「文福、出ないの?」と声をかけても、じっと入居者のそばにとどまり、見守り続ける。そのしぐさは、普段、入居者とじゃれ合う文福の雰囲気とは違っていた。

 これが自分の愛犬・愛猫がいる入居者の場合、文福は少し遠慮する。まるで、「ここには、看取るペットがいるから大丈夫だろう」と察するかのようだった。しかし、それでも死期が近くなると、入居者の部屋の近くにいようとすると出田さんは言う。

 前出の斎藤さんに寄り添う猫のトラも、文福のような力があったという。トラは看取りの力というよりは、弱っていることを察知する力を持っていて、寄り添って癒す行動をとっていた。ペットセラピーの専門家がトラと入居者の様子を見て、「どんな訓練を受けたセラピードッグもかなわないアニマルセラピーを行っている」と、感嘆したこともあるそうだ。

 文福は、看取り犬としての奇跡だけではなく、認知症の佐藤トキさん(仮名)との間でも奇跡を起こした。重度の認知症で入居した佐藤さんは、理解力や判断力の低下に伴い、無表情な状態だった。佐藤さんの息子は、長年犬を飼っていた母親が『さくらの里 山科』で犬と暮らせば、何か変化があるのではないか、と望みをかけて託したのだ。

 入居した佐藤さんは当初、文福をかつて飼っていた「ポチ」と思い、「ポチ」と呼びかけ、次第に表情を取り戻していった。文福は、「ポチ」と呼ばれても、佐藤さんの元に行くやさしい犬だ。佐藤さんは、そんな文福をやさしくなで、抱きしめ、3週間後には、「ポチ」ではなく「文福」であることを理解していった。

 そして、入居1か月後に面会に来た息子に、「あら、幸一、来てくれたの?」と呼びかけたのだ。わが子の存在を忘れてしまっていたかに見えた母が名前を呼んだ奇跡に、息子は絶句していたという。

文福の看取り犬としての能力はベテラン介護職員・出田さんによって見いだされた 撮影/伊藤和幸
文福の看取り犬としての能力はベテラン介護職員・出田さんによって見いだされた 撮影/伊藤和幸

 それから1年半、佐藤さんは、文福と幸せに暮らした。「70を過ぎて犬をあきらめたのに、こうして犬と一緒に暮らせるなんて夢みたい」と話し、そして、「息子たちには悪いけれど、文福に看取ってもらいたい」といたずらっぽく笑って話すこともあったそうだ。その願いどおり、佐藤さんは文福と息子さんに囲まれて亡くなった。

「亡くなってしまうことは、この施設では日常なんです」

 と若山さんは言う。介護とは、常に命と向き合う仕事でもある。

「看取りにペットが加わっていても、本当は特別なことではなく、普通のこと。ペットも家族ですから、最期まで一緒にいられて当たり前なんですよ」(若山さん)