『美智子さまに学ぶエレガンス』(学研プラス)や『美智子さま「こころの旅路」』(大和書房)など、美智子さまや皇室に関する著作物をこれまで40点以上も出してきた。晩年は第五腰椎陥没や第二腰椎圧迫骨折、脊柱管狭窄症による左半身の痛みを抱えていたが、鎮痛剤を飲みながら仕事を継続。『週刊女性』の取材に対し、
「私が死ぬまでは書かないでいただきたいのですが……」
と、冗談交じりに切り出すこともあった。
これまでの数々の取材秘話を振り返り、“生涯現役”を貫いた渡邉さんを悼む─。
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美智子さまの存在を渡邉さんが初めて知ったのは、まだ皇室入りされる前だった。
「1955年に読売新聞社が主催した作文コンクール『はたちの願い』で、4185通の中から2位に入選したのが、当時、聖心女子大学2年生だった正田美智子さんでした。それだけでは記憶に残りませんでしたが、受賞から約1か月後に朝刊を読んでいると、美智子さんが賞金2000円のうちの1000円を東京都の恵まれない人々への社会事業に寄付し、残りを聖心女子大学に奨学賞金として寄付されたという記事が目に入りました。3次選考で落選した私は、もし入賞したら賞金でスキーに行こうと考えていたので、恥ずかしい限りでした」
そのころから人のために何ができるかを考え、実践していた“正田美智子さん”は、約4年後の1959年4月10日、皇太子妃になられる。一方、日本テレビに入社して3年目だった渡邉さんは、駆け出しの記者兼ディレクターとして、ご成婚パレードの中継に携わった。
「一生涯関わり続けることになる」と確信
「それまで皇太子さまと結婚されるお相手は、皇族や華族など名門のお家柄から選ばれることが慣例でした。美智子さまに対して意地悪く“平民が”という言葉をかける人もいましたね」
沿道には53万人以上の人がお祝いに集まった。
「私の仕事は、青山学院大学の合唱団を待機させ、おふたりが通過される際に、ハレルヤをコーラスしてもらうことでした。何が何でもテレビカメラのほうを向いていただくというのが、日本テレビの秘策だったのです」
作戦は見事成功。美智子さまの笑顔を約45秒間も捉えることができた。
「この方とは、きっと一生涯関わり続けることになる」
渡邉さんは、そんな予感を抱いたという。皇太子妃になられた美智子さまは、たちまち日本女性の憧れの的に。“ミッチーブーム”を巻き起こした。
「美智子さまがお召しになっていた洋服が銀座のデパートに並ぶと、私たちはみな給料袋を持ってデパートに駆け込みました。ワンピースの値段は1万円前後でした」