末盛さんが'19年に出版した『根っこと翼 皇后美智子さまという存在の輝き』(新潮社)という書籍も、ベトナム語への翻訳が進められている。
うれしいニュースだけではない。10月に米寿をお迎えになった美智子さまのご近況について、宮内庁はこう発表した。
上皇ご夫妻から届いたグリーティングカード
《今年1月には、児童文学者で東京子ども図書館を設立した松岡享子さんが亡くなりました。(中略)ファッションデザイナーの三宅一生さん、森英恵さん、元内閣官房副長官で恩賜財団母子愛育会会長であった古川貞二郎さん始め多くの人々との別れを惜しまれました》
11月25日には、上皇さまと美智子さまの“恋のキューピッド”として知られ『天皇陛下のプロポーズ』(小学館)の著者でもある織田和雄さんが87歳で亡くなった。1949年、織田さんの兄・正雄さんが上皇さまと同級生だったことを機に、皇居でのテニスの試合に招待されて以来、交流を続けていた。
「織田さんは、上皇さまの弟である常陸宮さまと同級生だったこともあり、“弟分”として可愛がられていました。上皇さまからは“ポケ”と呼ばれ、織田さんは“チャブさん”と呼び合う仲です。1957年、上皇ご夫妻が初めて出会われた軽井沢でのテニストーナメントに同席し、ご結婚に至るまで、おふたりの電話を取り次ぐ役割も担いました」(皇室ジャーナリスト)
織田さんと定期的に会い、亡くなる直前にも食事をしたという『皇室の窓』(テレビ東京系)の放送作家・つげのり子さんは、平成時代に入っても続いた織田さんと上皇ご夫妻の交流について明かす。
「毎年、ご夫妻から届くグリーティングカードを、織田さんは大切に保管していました。はがきサイズの二つ折りカードで、表にはご家族の写真が貼られています。カードを開くと、上皇さまの文章に続く形で、美智子さまがメッセージを綴られているのがお決まりでした」
上皇さま自筆の《新年おめでとう》から始まることが多かったため、つげさんが「年賀状」と表現すると、織田さんは否定し「グリーティングカード」だと強調した。
1960年、単身でアメリカに留学していた織田さんのもとに届いたカードには、美智子さまが流麗な字で次のように綴られている。