介助なしで旅行へ行けるほど元気に。今年、母と1泊2日の沖縄弾丸旅行へ。観光やグルメなどを満喫した 写真提供/ミミポポさん
介助なしで旅行へ行けるほど元気に。今年、母と1泊2日の沖縄弾丸旅行へ。観光やグルメなどを満喫した 写真提供/ミミポポさん
【写真】寝たきりの状態に……花咲き乳がんの症状がいちばん大きかった頃

 医師とつながったことで、やっと自分の命が危険な状態だと実感し、病院で診察を受けることを決断する。訪問医は方々に手紙を書き、今の状態での治療を受け入れてくれる専門医を見つけてくれた。

一緒に告知を受けた母のほうが泣いていた

信頼する先生がつないでくれた専門医と病院だったので、徐々に心を開いて診察を受けられるようになりました

 2019年9月末に再度検査をすると、乳がんは骨や肺、膵臓、肝臓に転移しており、ステージ4にまで進行。極度の貧血で胸水がたまり、骨は穴だらけでヒビだらけ。左大腿骨は3分の1がすでになくなっていた。

このときは生きることに必死で余命2か月と聞いても不思議と恐怖心はありませんでした。『これだけ痛いからそうだよな』と、どこか冷静で、一緒に告知を受けた母のほうが泣いていましたね

 その後、入院してホルモン治療を始め、今に至るまで抗がん剤治療を続けている。当時、介助が欠かせなかったミミポポさんを支えてくれたのは家族だ。

両親は私が3歳のときに離婚をしていて、母には現在、パートナーのニコさんという方がいます。私がほぼ寝たきり状態のとき、いちばん助けてくれました

 自力で姿勢を変えたり、起き上がることもできなかったため、仕事で不在の母の代わりにいつも横にいてくれた。

父ではないけれど“ファミリー”という感覚はあります。痛みに耐えていたころは、トイレに連れていってもらうことも。ですが不思議と恥ずかしいという感情はなかったですね。私は甘えるのが下手で、母とちょっと距離をとっていた時期もありましたが、病気がきっかけで素直に自分をさらけ出せるようになり、母ともいい関係になってきたと思います

 離れて暮らしていた父との関係も変わった。

標準治療をしないことに父は最初、反対していたので、私からは連絡を取らなくなっていたんです。母からステージ4と聞いた父はすぐ飛んできて、すごく泣いていて。わかりにくかった父親からの愛情に気づけた。今は私のがん治療について調べてくれ、頼りになる相談相手です