美しい着物に残る沖縄戦のつらい記憶
太平洋戦争末期の1945年、米軍が沖縄本島に上陸して始まった沖縄戦。国頭村では村民が山へ避難し、吉子さん一家も3か月間、山中の壕で生活を送った。
「海には船がびっしり、空には飛行機がいっぱい飛んでいて、見つからないように暮らすのは怖くてね。同級生の子が爆撃を受けて亡くなったのもショックだったよ」
15歳だった吉子さんの姉も犠牲に。兵士の世話をする看護隊に動員されていた時に、たくさんのムカデに刺され、アナフィラキシーショックで命を落としたのだ。
「治療もできなくてね、姉は1週間くらい苦しみながら亡くなった。戦争はこんな形でも人の命を奪うんだよ」
終戦を迎え村に戻ると、自宅は爆撃で焼け、灰になっていた。
当時、国頭村には特に被害状況が悲惨だった読谷村(よみたんそん)からの避難民が多くおり、吉子さんの母は新しく借りた家に読谷村の一家を同居させた。その子連れの女性が食料に困り、着物と米を交換してほしいと母に頼んだという。
「母は着物はいらないとお米3升を渡してあげたんだけどよ、女性は着物を置いて、そのまま読谷に帰って行きよった。2、3年前にタンスの整理をしていたらその着物が出てきてね。かわいそうにと感じて、持ち主に着物を返したいと」
孫の浩之さんがTikTokなどSNSを使って着物のことを呼びかけ、持ち主の娘を捜し出すことに成功。77年ぶりに再会を果たす。実は、着物は当時13歳だったその娘のために作られたものだった。
「うれしくて、でも当時を思い出すとつらいもんだから、涙を流して2人で抱き合ったよ」
その後、着物は地元の資料館に寄贈された。吉子さんは、地元の中学校で自身の戦争体験を伝える活動をしている。
「とにかく絶対よ、戦争はダメ。私が元気な間は伝え続けたいさ」
戦争を体験したことで、日頃からの人間関係でもケンカは絶対にせず、仲良くやれる方法を探す。それは家族でも同じだ。
「私は息子よりもお嫁さんを大事にしているからね。孫たちの幸せを考えたら、子育てを頑張ってくれているお嫁さんを大切にしなきゃ!」