6年間誰にも話せず孤独ながん患者だった
自身を「孤独ながん患者だった」と話す田所先生。がんになっていちばんつらかったのは、家族と限られた数人以外に話せなかったことだ。
「ママ友や職場の同僚からも明るく元気な人と思われていたと思います。だから弱い姿を見せたくなかったし、『がんになった』なんて言ったら、相手がどう接していいか困るのではないかと思って。
そんな気持ちを周りの人に背負わせるのが嫌でした。だから家族と勤務先の院長先生、師長さん、いちばん仲良しのママ友1人だけにしか話せませんでした」
がんサバイバーであることをやっと話せたのは、6年という長い月日がたってから。
「あるインタビューがきっかけでした。働く女性医師の取材だったのですが、自分の人生において、がんを切り離して語ることは難しかったんです。
振り返ると、私の中には常にがん再発に対する恐れがあり、それを抱えながら子どもや夫との人生、女性としての人生を歩んできた。だから手術をしたら終わりではなく、がんは一生続くもの。今でもがんになんてなりたくなかったと思います」
がんを抱えながら過ごした6年という期間が、「ひとつの区切りになった」と言う。
「公表したら、患者さんから『医者でも苦しいなら私も苦しくて眠れないのは当然だと思った』と手紙をいただいたり、同僚の医師から『患者さんの気持ちがわかりました』という言葉をもらえたりしました。
そしてこのころに、緩和ケア医の道に進み始めることを決めました」
娘とコンサートへ、“今”を全力で楽しむ
子宮頸がんは術後、脚などが異常にむくんで生活に支障が出る「リンパ浮腫」を発症する人が多い。田所先生はならなかったが、今後なる可能性も高い。専門だった麻酔科医の仕事は立ちっぱなしの時間が長く、続けることは困難に。
仕事以外にも、リンパ浮腫のリスクを下げるためにスリムなジーンズやヒール靴など、あきらめないといけないことが増えた。それでも今を生きることに目を向ける。
「どんなときも『今しかない』と思うようになりました。30代は子ども優先の生活が当たり前。行きたいところ、やりたいことがあっても、子どもたちが巣立った50代・60代になってから楽しめばいいやと考えていました。
でもがんを経験してからは、この先どうなるかは誰にもわからないし、自分も楽しいことを全力でしなくちゃと思うようになりました」
手術から数年後、田所先生の心に響いたのが長女と一緒に行ったジャニーズのコンサート。ずっと苦しかった自分の心を解放できた瞬間だった。
「初めて娘とコンサートに行ったとき、感動で涙が止まりませんでした。松潤がカッコよすぎたのもありますが(笑)、『つらかった』『苦しかった』といった感情があふれ出して号泣。
気持ちがなぜかすっきりして、それ以来、娘とたびたび見に行っています。『来年のことはわからないから今年も行こうね!』と娘に言うと、『お母さん、そう言いながら何年目かね』と笑われます」