ある料理、ある酒を口にするとき、将又(はたまた)、ある店であのメニューを頼むとき、ふと思い出してしまう人―。料理やお酒をきっかけに引き出されるあの日、あの人を描く。グルメじゃないけど、僕にとっての忘れられない味は……。
* * *
その土地の匂い、料理、そこで暮らす人々。すべてがマッチする場所が、まーまー長く生きていると、一つや二つ誰にでもあるはずだ。僕にとってのそんな場所がタイだった。
突然の遅すぎるアーティスト宣言
十年以上前、僕の友人が「サラリーマンを辞めて、写真家として生きていきたい」と飲みの席で宣言した。当時すでに三十代半ばで、遅すぎるアーティスト宣言だ。しかし、彼の情熱は本物だった。「タイの子供たちの笑顔を撮りに行く」と言って、翌日には会社を休職し、プーケットまでのチケットを予約する。
もともと大人しい性格で、真面目に印刷業をこなし、金遣いも荒くない男だった。二十年以上一緒にいて、怒ったところは見たことがない。その代わり、自分から主張して行動するところも見たことがなかった。口癖は「それでいいよ」。だから突然のアーティスト宣言が嬉しく、よほどのことだと受け止めた。
「一緒に来ない?」
その誘いに二つ返事で乗ったのは、彼の人生の分岐点に立ち会ってみたかったからだ。
プーケットに到着した翌朝、彼は早速撮影に向かったようで部屋にいない。約束した夕飯の時間まで、僕は異国の地を散歩することにした。
朝から地べたに座っているおじさんたちが気持ちよさそうに、甘い煙を燻(くゆ)らしている。知らない路地を曲がって、知らない食堂に入る。カウンターに座ったと同時に、ザザーッとゲリラ豪雨が降ってきた。バケツをひっくり返す、なんて生やさしいものじゃない。地面を叩きつけるように降る激しさに、しばらく呆然と外を眺めた。
気づくと目の前に恰幅(かっぷく)のいい女性が立っていて、オーダー待ちをしている。僕は慌ててメニューにある写真を指さす。コクンと頷(うなず)いた女性は、テーブルをまあるく拭き、厨房へ戻って行った。
雨はすぐにやみ、今度はギラギラとした太陽が顔を出す。全開の窓から熱風が入ってくる。店内では、カタカタと壊れかけた扇風機が一台だけ頼りなく回り、ムンとした動物の匂いがずっとしていた。
運ばれてきたシンハービールをグラスに注ぐとすぐに、ガパオライスと揚げたエビに塩をふんだんに振った料理が1つの皿に盛られ、運ばれてきた。ガパオライスは東京で食べたものより油っぽくない気がした。いや、ムンとした気候も相まって、ちょうどよく感じただけかもしれない。
途中、ナンプラーをドバドバかけ、味変を楽しむ。唐辛子や砂糖も微調整しながらかけてみる。これもまた美味い。エビの揚げ物は塩の量が半端なく、舌先が痺れてシンハービールをもう一本注文した。
その後、店を出て、ビーチまで歩く。プラスチックのイスに座ったタイの若者が、タバコらしきものをプカ~とやって、「お金をください」としっかりした日本語で話しかけてきた。「なぜ日本語喋れるんですか?」と野暮なことを僕は聞いてしまう。「日本の女の子は優しいよ」と彼は柔和(にゅうわ)な笑顔を作った。