僕の友人のミュージシャンは二年半前、登戸の半地下のワンルームマンションに住んでいた。でも、数年で彼はヒット曲を連発し、中目黒のタワーマンションの最上階に引っ越した。貯金額は通帳を記帳するたび跳ね上がり、最近は「あまりに桁が多くなって、気持ち悪いとすら思うんだ」とこっそり教えてくれた。

 彼が、中目黒のタワーマンション最上階から見る夜景を楽しめたのは、最初の二週間だけ。耐震性に優れた建物は細かく揺れ、三半規管に異常をきたしたのは入居して一ヶ月。写真週刊誌には常に追われ、期待とプレッシャーは、貯金額と同じように桁違いに上がっていく。久々に食事をしたとき、「俺、なんなんすかねえ」と彼はため息をついた。

 タイのプーケットで出会った男は、「ドゥと言いますぅ」と僕に握手を求めた。ドゥはひと夏に最低でも、日本人の女性二十人くらいと関係を持つらしい。基本はその日暮らし。食事は観光客に奢ってもらうのが日常だ。関係を持った日本人の女性に会うため、十回は来日したという。『一風堂』の赤丸が好きだと言うので、本当はそれ以上かもしれない。

 僕がタイに滞在する間、ドゥとは何度も会って、何度も「お金をください」と口慣れた日本語でねだられた。「無理」と返すと、ニヤッと笑って、そのまま甘いタバコを吸い、「プハァ~」とやって終わりだ。あのすべてに対しての執着のなさは、ちょっと見習いたくもなる。

 渋谷の仕事場で久々にガパオライスが食べたくなって、近くのタイ料理屋に出かけた。しっかり辛くて、プーケットで食べたガパオライスに似ている。ドゥはあれからどうしただろう。夏が来るたび、日本人女性とうまいことやっているのだろうか。ぼんやりタバコらしきものを吸って「プハァ~」とかやって、自由気ままに生きているのだろうか。

 中目黒のタワーマンションに住むミュージシャンは、秋に引っ越すことが決まった。

 突然アーティスト宣言をした彼は、タイの食べ物が身体に合わず、激しい腹痛を繰り返し、実は僕より先に日本へ帰国した。出端(ではな)をくじかれた彼は、今はクライミングに挑戦している。

 東京はあのとき食べたガパオライスと遜色ないガパオライスが食べられる土地で、清潔で、治安も良く、夜は煌々(こうこう)と灯りがついている。なんでもあるこの土地で、僕は仕事をしながら、成功や失敗を日々繰り返している。久しぶりに満員電車に乗ったら、あまりのギュウギュウ詰めの状態に、一駅前で降りてしまった。

 ゲリラ豪雨が降ったりやんだりする土地。ねっとりとした空気。空港からすでにうっすらとナンプラーの香り。ムンとした動物の匂い。程よく弛緩(しかん)した人々。そのどれもが、ずっと暮らしてきたかのように心地良く感じられる場所だった。

 僕はまた満員電車に乗る。自分はどんな地で、どう生きていきたいのか、正解はわからない。「そんなものは最初からないよ」とドゥに笑われそうな気がするけれど。

燃え殻さん 取材協力/出窓BayWindow
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燃え殻(もえがら)●1973(昭和48)年、神奈川県横浜市生まれ。2017(平成29)年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetflixで映画化、エッセイ集『すべて忘れてしまうから』はDisney+とテレビ東京でドラマ化され、映像化、舞台化が相次ぐ。著書は小説これはただの夏』、エッセイ集『それでも日々はつづくから』『ブルー ハワイ』『夢に迷ってタクシーを呼んだ』など多数。

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