その日も、「おはよ~」と黄色い旗をパタパタッとして、僕たちに挨拶をしてくれた。そしてエプロンのポケットから、いちごミルクのキャンディーを一つ、僕に握らせる。化粧っ気のない笑顔が眩(まぶ)しい。

 ある者は「小泉今日子に似ている」と言い、ある者は「浅香唯だ」と譲らなかったが、僕にはタイムボカンシリーズ『ヤッターマン』の敵役、ドロンジョ様そっくりに見えた。ちなみにドロンジョ様は、僕の初恋の人だ。

「いちごミルク。みんなの分はないから、内緒よ」その言葉で、僕はすっかりほだされてしまう。白いTシャツと腕の黄色の腕章が、とても似合っていた。長い黒髪が風で揺れ、石鹸のような匂いがほのかにした。「ありがとう」の一言すら、気持ちが昂(たか)ぶって言えなかった。

 その日の夕方、学校が終わって、僕はひとり通学路を帰っていた。朝もらったいちごミルクのキャンディーは、まだポケットの中だ。もう詳しくは忘れてしまったが、その日はなぜか水彩絵の具のセットを片方の手で持ち、もう片方の手で体操着が入った袋を持っていた。よいしょよいしょと大荷物の僕は歩いている。

 陽(ひ)がいまにも沈みそうで、遠くの空は薄い紫色に染められ、綺麗だ。居酒屋の提灯(ちょうちん)が灯(とも)り、おでんのいい匂いがどこからか微(かす)かにしていた。そのとき、カカカッとハイヒールを履いた女性が、僕の目の前を横切っていく。黒いスカートに白いシャツの女性。それは朝に見守り活動をしていた、Oさんのお母さんで間違いなかった。

 小走りで向かった先には車高の低い黒いスポーツカーが停(と)まっている。颯爽と車に乗り込むOさんのお母さん。運転席には、いかにもモテそうな、ガタイが良く、これまた白いシャツが似合う、日焼けした男が乗っていた。

 それがOさんのお父さんだったのかどうか、Oさんのお父さんを見たことのない僕には判別ができない。とにかく、両手に大荷物を持った僕は、しばし呆然(ぼうぜん)としながらその光景を眺めていた。

 車中の男女は、女のほうが覆いかぶさるようにして一瞬だけ重なる。そして、すぐに座席のシートベルトをする。程なくして、「ブロロロッ」と重いエンジンが響き出した。図らずも大人の世界を覗(のぞ)いてしまったような気がして、我に返った僕は目を逸(そ)らした。

 満面の笑みのふたりを乗せ、黒いスポーツカーは、あっという間に見えなくなる。さっきまでかろうじて沈んでいなかった夕陽は、完全に沈み、濃い藍色の世界になる。

 僕は両手の荷物を一度置いて、ポケットの中にあったいちごミルクのキャンディーを、口に放り込んでみた。カチッと歯で噛み砕くと、中からドロッとしたミルクのような甘いクリームが出てくる。僕は割れたキャンディーを舌の下に押し入れ、両手に荷物を持ち直し、「よいしょ」と口に出してまた歩き出した。


燃え殻さん 取材協力/出窓BayWindow
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燃え殻(もえがら)●1973(昭和48)年、神奈川県横浜市生まれ。2017(平成29)年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetflixで映画化、エッセイ集『すべて忘れてしまうから』はDisney+とテレビ東京でドラマ化され、映像化、舞台化が相次ぐ。著書は小説『これはただの夏』、エッセイ集『それでも日々はつづくから』『ブルー ハワイ』『夢に迷ってタクシーを呼んだ』など多数。

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