——そうそうたるタレントさんを発掘・育成されてきましたね。所属タレントの選考基準は、やはり胸の大きさが優先されていたんですか?
「雑誌のグラビアブームとときを同じくして、たまたま契約をしていた子が皆、ふくよかで胸が大きかったんだよ。不思議なことにね。
男性誌だと『平凡パンチ』『プレイボーイ』からはじまって、漫画誌『ヤングマガジン』『少年サンデー』、それから『FRIDAY』や『FLASH』『FOCUS』などの写真週刊誌が出てきた時期だね」
—それは、80年代あたりのことですね。
「ただ、グラビアブームが来るとは思わなかったし、また当時は"グラビア"という言葉も一般的ではなかったし、脱ぐことに特化したタレントをつくろうなんて思わなかったからね。
こちらは、まずはグラビアページにタレントを露出させて、顔と名前を一致させたうえで、なんとかドラマに持っていこうと思っていた。
名前と顔だけでも世に出てさえくれれば、ほかのメディア露出経験のない子よりは、テレビやラジオの世界でも可能性が広がるだろう、キャスティングしてくれる側も使いやすいだろうと考えていたね」
——このグラビアブームが来たときはどう思いました?
「これはひょうたんから駒。当時、雑誌には多くのクライアントが出稿していて、表紙のすぐ裏の広告であれば数100万円もするような時代だね。そうすると、その広告と並ぶページにタレントを無料で載せてもらえるわけ。
当時は雑誌も100万部とか売れていた時代でしょ? そんな雑誌に1週間に何度も掲載されたら、タレントの露出価値はかなり多くなる。お金に換算したらいくらだろうと考えた結果、こんなに美味しい仕事はないと考えて売り込みをしていた」
——まずはタレントさんのメディア露出を増やすことを重視したんですね。
「ただ、僕はグラビアをやらせたあとのことも考えていて、どの女の子にも必ずレコードやCDを出させるようにしていたんですよ。グラビアは“訓練場”だと捉えていた。テレビタレントや歌手になるためのね。
かつてのように雑誌が元気だったころは、毎日のようにグラビア撮影があって、カメラマンから“このポーズいいよ”“表情いいよ”とか言ってもらったりして、これが勉強になっていたんです。今はこういう場所がなくなってしまった」