雑誌に掲載された“ポパイ”が世の中を動かした
後にパートナーとなり、世界的なコレクター・北原照久を支えることになる旬子さんとの出会いは、青山学院大学1年のときに遡(さかのぼ)る。
「キャンパスで初めて見たときは、とにかく真っ黒け。それがスキー焼けだと後になって知りました」(旬子さん)
京都の老舗天ぷら屋に生まれた彼女。共に商売人の家に生まれた者同士、打ち解けるまでにそう時間はかからなかった。
やがてスキーの季節がやってくるとゲレンデに連れ出し、旬子さんのハートを射止めた。
「彼女がリフトに乗ったタイミングを見計らって滑り出し、途中の急斜面でロング・ジャンプをキメ、投げキッスをする。リフトは大騒ぎになりました。
オーストリア留学で磨きをかけたスキーのテクニックは当時、向かうところ敵なし。ゲレンデ中の女性のハートをわしづかみにしていましたよ」
2人は北原が25歳のときに結婚。思い出の地・インスブルックから車を借りてベネチアまで走った新婚旅行も懐かしい思い出のひとつだ。
一方、北原のコレクションに対する情熱には、結婚してみて改めて驚かされた。
「オンシーズンの毎週金・土・日は、必ずスキーのバスツアーに同行するんです。帰ってくるのは必ず夜。どんなに疲れていてもおもちゃの掘り出し物があると、それから車を飛ばして遠くまで買い求めに行きました。
骨董市が開かれる日は“先んずれば人を制す”などと嘯(うそぶ)きながら、朝の4時には現地に着いていました」(旬子さん)
しかしこれは、過去に苦杯をなめた経験があるからだ。あるおもちゃ工場から、
「奥から返品や売れ残りのおもちゃが大量に出てきた」
と連絡が入った。しかし北原は高熱のためすぐに行けず、数日後に出かけたところタッチの差で屑鉄(くずてつ)屋さんにトラック一杯3万円を支払って引き取られていた。なんとも残念な話だ。
「海外のコレクターも探していた貴重な自動車のブリキのおもちゃばかり。あれを捨てなかったら、今ならマンションが買えたはず。
荷積みしきれずに転がっていたモノを集めて、引き取ってきました。もし間に合っていたらと思うと、悔やんでも悔やみきれません」
そんな北原のおもちゃへの思いが花開くときがやってきた。'80年代を目前に北原がコレクションするブリキのおもちゃ「ポパイを乗せたプロペラ機」が当時の人気雑誌『ポパイ』の表紙を飾ったのである。
「おまけに本文の左肩にブリキのおもちゃが掲載され、編集部にも問い合わせが殺到。この号にもプレミアムがつきました。さらに『ポパイ』を追いかけるように、若者向けの雑誌がこぞってポップだけど懐かしいブリキのおもちゃの魅力を、特集してくれました」
そして迎えた'80年。人々が寝静まったころ、突然ブリキのおもちゃたちが動き出す西武流通グループ(現セゾングループ)のCMがオンエアされるや渋谷の街はこのポスターで埋め尽くされ、糸井重里の「不思議、大好き。」のコピーとともに一大ムーブメントを巻き起こした。
しかもカンヌで行われたCMフェスティバルで銅賞を獲得。その快挙に続けとばかりに、三輪車のおもちゃやフラフープ人形が登場する『明星チャルメラ』。戦前の鶏のおもちゃがエサをついばむ『大和証券』のCMなど、さまざまなブリキのおもちゃがメディアを席巻していった。
そうしたブームを背景に'82年、渋谷西武のイベントスペースで北原のブリキのおもちゃのコレクション展が開催された。すると2週間でなんと3万8000人もの観客が殺到。大成功のうちに幕を閉じた。
──おもちゃの博物館をつくろう。
そう腹を決めたのは、まさにこのときだったと北原は当時を振り返る。